大背美流れの縁(おせみながれのえにし)

かつて太地町を襲った大きな海難事故に端を発した、太地町と神津島のつながりを追った旅の記録

あらすじ

動画の撮影風景1878年12月24日。
日本の捕鯨史に残る、ある大きな事故が起きた。
「大背美流れ(おせみながれ)」
数多くの犠牲者や行方不明者を出し、太地浦の捕鯨業が終焉を迎える原因になった、歴史的な海難事故である。
この事故の生存者の一部が、伊豆諸島の神津島(こうずしま)に漂着した。
しかし、何処に流れ着いたかは、太地ではわからなかった。
古式捕鯨の時代から時が流れ、太地浦は大きく変化をしたが、現在でもこの記憶が受け継がれるのは、それでも捕鯨を続けてきた太地という場所の持つ、歴史の重さなのかもしれない。
太地港を見下ろす漂流人記念碑は、どんな想いで熊野の海を見下ろしているのかを、少しでも知るために、神津島の前浜まで旅をしてみた。

制作の経緯及び意図

僕が初めて太地町を歩いた際に、是非見てみたかった場所の一つが、「漂流人記念碑」という名の石碑でした。
この石碑のことや、この石碑が建立された理由になった「大背美流れ(「おおせみながれ」と読む人が多いですが、本来は「おせみながれ」と読むのが正しいそうです)」のことは、太地町のWebサイトで知ってはいましたが、実際に現地を見てみると、単に好奇心というだけでは言い表せない別の気持ちを抱くようになりました。
「神津島まで流された人たちは、一体どんな気持ちだったのだろうか?」
それを少しでも知りたくなったのです。

太地町立くじらの博物館で購入した「熊野の太地 鯨に挑む町」や歴史小説家の伊東潤氏の著書「巨鯨の海」などを読み、当時の状況を自分なりに想像していたのですが、やはりそれだけではよくわかりませんでした。
2015年の10月に、太地町の飛鳥神社の祭りを見て帰宅した後のこと、Wikipediaのあるページに「大背美流れ創作説」とも読める記載を見つけました。
僕はとてもがっかりしました。
がっかりすると同時に、「これは実際に自分で行って、その場に立つきっかけになるのではないだろうか?」とも思い、現地の郷土資料館に問い合わせたところ、前浜という場所だということがわかりました。
しかも、残念なことに、大背美流れという出来事を辿って神津島を訪れた人は、その時までいらっしゃらなかった(後に子孫の方が訪問されたそうです)ということでした。

そして、2015年の12月に、実際に神津島まで行くことになりました。
記録によれば、大背美流れで神津島まで流された方々は、四日ほど掛かって神津島まで流れ着いたそうです。
その途方も無い距離と、その果てにたどり着いた場所で、夕日の先にある熊野を、どんな気持ちで眺めたのだろうかを、是非当事者の子孫でもある太地町の方々に見ていただきたくて、この動画を制作しました。

制作後記

とりあえず、動画を制作しようと思ってはいたのですが、正直なところ、何を動画にすればいいのかがわからず、どうしたものかと考えていたのですが、榎本有夏さんの「梁塵秘抄」という曲をお聞きして、「途方も無い距離」というテーマが浮かびました。
結果、移動の、特に船の上のカットばかりが並んでしまって、目的地である前浜の光景をあまり入れられなかったことや、ヒントを得たこともあり、是非BGMに使いたかった「梁塵秘抄」という曲の長さの都合で(「曲のせいにしちゃダメだろう」という話もありますが)文章が読みにくいところなども出てきましたが、そういった失敗も含めて、勉強になった動画です。

撮影データ

動画名 大背美流れの縁(おせみながれのえにし)  
撮影者 福田 礼(BowWorks)  
撮影時期 2015年12月  
制作日数 撮影2日/編集等5日程度  
撮影機材 iPone6s/FinePix HS30EXR